2008年03月12日

138匹のアートな犬たちが集まって街中で遊ぶ意味

 1月31日に、愛知県へ「138匹わんちゃん大集合!〜街に遊ぶアートな犬たち〜」の報告書を提出した。

 それに合わせて、この事業の意味を、自分なりに整理してみた。どうもちょっと70年代っぽいタッチになってしまったし、例によってクドイが、お時間ある方は見てやってください。

 「138匹」の「アート」な「犬」たちが「集まって」「街」中で「遊ぶ」意味について、まとめたものだ。






138匹のアートな犬たちが集まって街中で遊ぶ意味


 「138匹わんちゃん大集合!〜街に遊ぶアートな犬たち」は、多くの方々のご支援・ご協力を得て何とか無事に終わった。138匹のアート犬を一宮の駅前に集めて遊ばせ表現していく作業に何を埋めたかったのか。今更ながら少し語ってみたい。



なぜ「犬」なの
 アートドッグの源流は、スゥエーデン、ストックホルムで始まった「ラウンドアバウトドッグ」というムーブメントだ。「ラウンドアバウト」は、自動車が周囲を回って進むロータリーのこと。そのラウンドアバウトへ車が突っ込み、飾ってあった鉄製のアート作品が壊された。ある日アーチストの誰かが、そこへ木でできた犬のアートを飾った。やがてその犬に他のアーチストが色を塗ったり、別の作品が飾られたりして「アート犬」が増殖していく。さらにこの動きが一般市民をも巻き込んで、どんどん広がっていく。これが「ラウンドアバウトドッグ」だ。2007年に入ってドイツでも2匹出たと、ラウンドアバウトドッグのウエブページに報告されている。
 この動きを日本で、一宮でやろう、というのが今回の企画だった。
 「犬」という、とても間口の広いテーマ、多くの人に微笑を与えるモチーフ。
 実際に始まってみると、とてもたくさんの人々がアート犬を指差して歩き、あるいは犬の数を数えて微笑み、話をしながら歩いていく姿をたくさん見かけることとなった。



「138匹」って
 いちのみや地ビール、切干大根パスタ、138ブレンドいちのみや珈琲、いちのみやチンドン隊、杜の宮市(みやいち)と、NPO志民連いちのみやは、尾張一宮〜一宮地方のアイデンティティ、この地だけのオリジナルを見つけようと様々な活動をしてきた。1・3・8しかアイディアは無いのかと言われつつ、これは街の興り「三八市」が「みや」からの洒落になっていたのと同じで伝統だと開き直り、138匹のアートドッグを集めようとした。語呂合わせではあるけれど、138匹のアートな犬たちが街の緑に遊び、みんなを待っている姿は創造するだに楽しい風景だった。138匹という「量」は、世界に通じる文化的な「質」を、この街のオリジナルとしても発信していこうとした結果である。



「大集合」すること
 元々の「ラウンドアバウトドッグ」が自然発生的なムーブメントだったのに、アート犬を意図的に集めて展覧会形式にすることは、おかしくないか。その答えは土地の所有と利用の関係から語らなくてはならない。
 「公」という概念は難しい。その具体的な現われの一つが「公共地」だ。「公共地だから誰でも使える」という考えと、「公共地だから誰かには使わせない」という考え。公益目的であっても公共地の使用の許可は厳しい。その厳しさが、有効かつ自由闊達な「土地利用」を阻んでいる。土地公概念の文明的違いと言ってしまえばそれだけでもあり、各国色々な経緯、歴史の中で土地使用・利用・所有の仕組みができていて、一朝一夕で動くものではない。
 だが、だからと言ってブツブツ言っているだけでは何も変わらない。公益性を明示しつつ、公共地を活用する仕組みを作らなければ地域内での健全でバラエティある循環は閉ざされる。この作業は個々の人間が個々の想いだけでできるものではなく、目的、手段、方法、運営者などすべてオープンにしつつ、管理者(行政)と話し合い、公共への想いが表現できる環境つくりをしなければならない。
 この観点からアート作品たちを一時に一つの場所に集め、野外展覧会という形で調整し、構成した。



アートドッグセンターとワークショップ
 野外で救いきれないものを収容するドッグハウスとして、あるいは体験型のワークショップをするアートルームとして、そして作品の検索や一覧ができる中枢・センターとして「アートドッグセンター」を開いた。これは一宮市銀座通商店街振興組合の皆さんのお気持ちにより可能となった。大家さんの西富さんにも丁寧にしていただいた。
 アートドッグセンターは全て手造りで、とりわけ雑貨チームcous×cousの青柳リカさん、なんのさわこさんの営為により、ブルーをテーマカラーにワクワク感の強い空間となった。
 そのアートドッグセンターでは、誰でも作れる「アート犬」つくりワークショップ(体験教室)を開催した。ワークショップでは色々な「気づき」がうまれる。参加者とりわけ子供たちは、アタマの中の抽象的な想像物を、アーチストたちの助けを受けつつ自らの手先を経て具体物とする。片やアーチストたちは、閉じることが多い工房から出て様々な人々の作業を助け、見て、共有することで反射物がクリエイティブな思考に染みていく。10月28日、29日の2日間に来場した120?人の人々は交錯し、手を出し合い、ちょっとムカついたりしつつ、全体としては強いビートをセンターの外まで響かせていた。
 ここでは「プロジェクト花玉」のみんなが中心となって「素材のヤマ」というアプローチもした。木っ端や金属くず、廃品など部材を山と積み、そこから色々なアート犬を作ろうという試みだ。この「素材のヤマ」からは、子供用の滑り台を元に催し全体の「看板犬」も作られた。また2m四方ほどのシートから子供たちがたくさんの犬を書き込んてフラッグアートが2枚生まれた。安井聡太郎さんは小さなボックスに様々な作品がはまる「TANA犬」ワークショップをした。
 人々のキモチは、街に点在するアート犬たちを繋いで伝播し、このアートドッグセンターに集まり、さらにまた街全体へと広がっていく。



一宮駅前という「街」
 会場となった一宮の駅前は、これから大きく変わっていく場所だ。
 その外的な要因としては、名古屋での重心地が栄近辺から名古屋駅近辺に移ったことがある。そこからJRで10分かからないという地のりと、外見は立派な中心街の様子から、多くの人々が一宮へ入りこんで来つつある。かつては繊維産業という、ほぼ単一の経済基盤の下、美しい三角錐のヒエラルヒー構造ができあがり、それで地域全体が成立していた。経済のみならず、文化、教育、福祉などもここを基点に豪華に成り立っていた。一宮あたりには、外から来て定住した人々を何年経っても「来たり人」と呼ぶ人がいる。人口40万人近い「ムラ社会」。これに風穴を開けるのは、やはり経済因子としての名古屋駅への諸集中だろう。すでに多くのマンションが、一宮の商店街の目抜き通りや駅周辺の一等地にどんどん建っている。
 内的な要因としては、市町合併による街の中心の移動がある。真清田神社を基点とする中心商店街が一宮の中心であったが、上記外的要因にも引っ張られつつ、広域化した一宮の中心は一宮駅となっていく。他の街には旧中心地と駅とが離れ、駅周辺の反映に比して旧中心地が衰退するという図式の明確なところが多く見られる。一宮では駅と中心商店街が隣接しているので見えづらいが、実は同じ基盤の変化が、これから明確になる。決して商店街の衰退を必至と言うのではない。逆に隣接しているからラッキーなのだが、隣接しているからこそ状況の変化が内部者に見えづらい。
 諸要因を基礎としつつ、色々なしがらみ、過去の軋轢、私利私欲が混在して、一宮の駅前はこれから変容していく。
 一宮の中心地は「白い街」だと考える。他の都市に比べて都市緑化や公共公園が少ない。そしてこの「白さ」は、実は単にグリーンのことだけでなく、そうした潤いや余裕、生活空間における「生活の質」そのものの欠落を物語っている。この一宮の駅前に、なるべく長期に渡る文化空間つくりをしようというのが、今回の大きなミッションだった。それは「白い街」の真ん中、新旧色々な人たちが駅からあふれて歩いていく歩道のあちこちに、微笑ましいアート作品を並べ、どうもこの街では失いがちな、ふくよかさ、豊かさ、アソビのようなものを描いていく作業だ。



「遊ぶ」
 自由闊達な表現、元気な活動を生む源泉は何に求められようか。ヒト・モノ・カネという資源に恵まれることも大切だが、いくらあっても、それだけでは手に入らないし、それが無くても大きく育つものがある。
 今回の事業で、個々の表現として現れた作品は、一つ一つ作り方も描き方も置き方もバラバラで、軽重大小、様々だ。様々だが、それは近くに集まって、集団として全体としても何がしかを表現しているのではないだろうか。それは大枚をはたき、豪華な飾りたてをしたファインアートではないけれど、どれも愛情と愛着を合わせて、その人なりの表現作業をした結果物だ。
 その犬たちは、緑の中で遊ぶ。多くの作品がお天道様の太陽の光に照らされ、あるいは荒天の風雨にさらされながら、街の か細い緑の中にチンとしている。その風景は、変容していくこの街の(あるいはどこにでもある一地方の)これからの市民のありかたを表現しているようにも思う。



アートと表現
 アートって何だろう。表現とは何だろう。オークションを経てカネが集まるところへと流れ流れていく多くのファイン?アートたち。作品の旅路の先が公共の美術館でなければ密室に保存され、彼/彼女らのごく閉じた空間で勲章のごとく取り扱われる。やがてオカネの所在が変われば、また別のところへ流れていく。逆に工芸〜クラフトの世界では利益獲得が活動の前提となりやすい。今ここで現実に売れることこそが重要だ。カネという難解な代物を間に挟みつつ、アートでもクラフトでも「表現」は揺れる。純粋な表現とは何だろうか。
 さらに美術館の役割は何だろう。表現(放電)⇒逐電⇒ 交流という文化の流れの中で、より多くの表現を可能にし、交流を生むことだろう。場合によっては逐電の機会も提供する。
 一方、野外のアートは資金の目処が立ちづらい。オープンな空間で入場料は取れない。しかしそれでも、野外で開催することが、多くの人々と作品が自然に交流する方法ではないか。室内でしか表現できないものもあるが、野外の普通の人々が日常行き交う場所をアートあふれる空間にすることこそ、美術館の究極の形ではないか。またそうした公的な場所、半公的な場所であるからこそ純粋な表現として自立することもあるのではないか。日常の中にこそアートをあふれさせていく価値はないか。さらにそのアートは表現と交流の交錯として成立させられないか。あるいは人々に充電、逐電する機会を提供すること。そうしてパブリックアートとして、野に放つ野外アートを、街中、駅前で成立させていきたいというのが138匹を街中に遊ばせた理由である。

 138匹を集めて この地この街のオリジナルとしつつ、地域の重要な緑地にアート犬たちを放ち、パブリックアートの空間を創出すること。アーチストを含む多様な人々に表現行為を可能ならしめること。これが今回のミッションであり、たぶん今後も継続されていくアートドッグ活動の根源である。
 まあそんな理屈より、アート犬たちを見ながら顔が緩んでいた多くの老若男女の顔こそが表現の一所在を示しているんだろうけれど。
(1/2/2008)

posted by 志民連いちのみや at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | MAKING
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/12303889

この記事へのトラックバック